祖父の言葉で看護師になろうと決意


story003-01[1]山川有喜子
私が小学校5年の時、祖父が他界しました。入院中、状態が悪くて身の置き所がない祖父は、無意識にベッド上で体を起こそうとしました。するとモニターが外れてアラームが鳴り響き、駆けつけた看護師は「起き上ったらダメじゃない!」ときつい一言。冷たく出てゆく看護師の背中を見ながら祖父は「有喜子、患者さんの気持ちがわかる優しい看護師になってや」と震える声で言いました。その祖父の言葉を受けて「私、看護師になろう」と決心したのです。
看護師になってからは、愛知県の公立病院で勤務し、その後に民間の小さな病院に転職しました。転職先では透析室で勤務したのですが、最新ケアの情報を得るための研修を受けたとき、亀山市立医療センターではすでにその最新ケアに取り組みデータ化されていることを知りました。「進んだ病院なんだ」と思っていたら、偶然にも亀山市に転居することに。それならここの透析室を経験したいと思って当院への転職を決めたのです。

望まれる生き方に添える看護がしたい

当院に転職して8年が過ぎましたが、ずっと透析室で勤務しています。透析患者さまは週に3回、4時間前後の治療を受けに通われます。何気なく通院されているのですが、腎臓の代わりをする治療というのは身体への負担も大きく、突然亡くなられる方もおられます。そんなことを考えると、毎回自分の足で来られる患者さまを、当たりまえに迎えられるということが喜びであり看護のやりがいにつながっている気がします。
これまで出会った患者さまで印象深いのは、在宅で亡くなられた方のこと。その方は80代の男性で、バイクで透析に通われていました。足腰は丈夫だったのですが、バイクで転倒して寝たきりに。それまではお元気だったのに、事故以来衰弱がひどく余命もわずかな状態になりました。ご本人は自宅での最期を希望されたのですがご家族の不安が大きい状態だったので、私たちは自宅での看取りを支援することにしたのです。そして自宅で最期の時間を過ごされて旅立たれたその方を看て、ご本人が望む生き方に添える看護がしたいと改めて思いました。

生きることに希望が持てる援助を目指して

story003透析室で長年勤務した私は、専門知識をもっとつけたいと思い、透析技術認定士の取得にチャレンジしました。資格の取得に関して当院は、全面的にバックアップしてくれます。私も病院の援助を受けて資格を取得することができました。
専門知識を持って透析の援助をする中で器械や治療のことばかりに走るのではなく、忘れたくないのは患者さまの心理的な援助です。透析を始めたら、今の医学では死ぬまで透析をしながら生活をすることが必要です。「もう治らない」という宣告をされたとき、ご本人は絶望感に苛まれることでしょう。そんな方に私たちができるのは、同じように重度の腎疾患をもちながら楽しく暮らす患者さまのことを知っていただき、前に進める気持ちになれるお手伝いだと思っています。私たちが古い患者さまと新しい患者さまの橋渡しをして、生きることに希望をもっていただけるよう、これからも援助をしていきたいと思います。